神栖市の波崎海岸行きは当日朝の思いつきだったので、その後のプランは一切考えていなかった。
海遊びをしていたらあっという間にお昼時。地図上でそれほど遠くなかった銚子市に寿司を食べに向かった。大学時代、釣りの帰りに銚子で食べた記憶が残っていたのだ。
3軒目にしてようやく営業中の寿司屋に行き着いた。店内は満員だったが、それほど待たずにカウンター席へ。新鮮な地魚の握りを頂き、散策を再開した。
途中で見つけた駄菓子屋で、子供たちのやる気を再注入して散策を続ける。銚子駅のすぐそばに『待合室』という気取らないネーミングの喫茶店を見つけた。
中には女性の先客が一人。年配の気さくなマダムが切り盛りしていた。 店内も気取らぬ雰囲気で、初めての客を緊張させない。壁には産地別のコーヒーの価格表と、待合室だけあって銚子駅の時刻表。そして、サイン色紙に描かれたチャーミングな女性の笑顔とメッセージ。マダムの思いが記されていることは読めば明らかだった。
汗ばむような陽気だったので、私はアイスカフェオレを、子供たちはイチゴミルクを注文した。「美味しいイチゴミルク作らんとね」「僕ちゃん、コーヒー豆挽くからスイッチ押してくれる?」などマダムの一言ひとことに子供たちへの気遣いを感じる。
カフェオレを堪能し、許可を頂いて店内を撮っていた頃、女性客が席を立った。マダムとの会話から、この女性も常連ではなく、千葉市から足を運んで近くにある藤の花の名所を見に来たことがわかった。
女性が店を出た後、すかさずマダムに藤の花の名所のことを尋ねると、歩いてほんの数分のところにある寺の名前を教えてくれた。これはいいことを聞いた!意気揚々と店を出ようとしたら、マダムに呼び止められる。
「お代を頂いてませんよ」
ハッとして自らの不注意に呆れる。
「気持ちがお寺に向いてました!」と赤面しながら会計を済ませた。
その時だ。
レジのそばにあった2枚の絵ハガキが目に留まる。一枚は伊勢海老、もう一枚は人形の絵だった。先ほどのサイン色紙を思い出し、「ご自身で描かれたんですか?」と訊ねると、マダムはそんなハズがないと言わんばかりに首を横に振った。
もう一度2枚の絵を眺めて、そのタッチに記憶が呼び覚まされる。前の職場の上司が、画家である奥様の描いた絵を職場に飾っていたのだが、その絵のタッチだったのだ。マダムに作者の名を確認すると予想は的中していた。
「その方、元上司の奥様です!」と高揚しながらマダムに伝えた。
マダムはさらに驚き、こう続けた。
「そのご主人が仕事帰りにいつもここへ立ち寄ってくれて、お友達になったんですよ」
そこまで聞いて、上司が以前に銚子市内で勤務していたことを思い出し、合点した。マダムと仲良くなった上司が、ある日奥様を連れてきて絵をプレゼントしたのだった。
六次の隔たりという仮説がある。世界中の誰とでも6人を介してつながっているという話だ。そう考えれば、この話はそれほど驚くべきことではないのかもしれない。
しかし、私たちは日頃、そのつながりが見えず、知り合いの知り合いでも赤の他人と思って接している。
喫茶店という空間は、人と人の距離を縮めて出会いを生み、人生をほんの少しハッピーな方へと導いてくれる。そう感じたひと時だった。